去る昭和39年8月18日、津幡中学校の体育館で「河北潟干拓建設事業」の起工式が行われた。それから4年8ヶ月、営々と続けられた放水路、締切堤防、
潟縁周辺の排水改良事業。 長い長い歴史を秘めた河北潟に、干拓の輪郭を示す堤防が水面上につらなり、放水路、防潮水門も完成した。そして、内灘ポンプ場のスイッチが入れば、干陸の開始である。 昭和45年5月10日、内灘ポンプ場と、津幡中学校体育館を会場に「干陸式」 が挙行された。右上の写真は、内灘ポンプ場に設けられたアーチ。下は、干陸式の案内状である。
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右下の写真は、ポンプのスイッチが入り、万感の思いを胸に秘めて握手される石川県の中西陽一知事と、河北潟干拓建設事業所の北村孝次郎所長である。 河北潟の漁業は、干拓事業発足の昭和38年12月に権利消滅の補償がなされた。 法律上の漁業は別として、締切堤防で固まれた中の魚は干陸によって住みかを失う。下の写真は、その魚を調整池に放つ神事である。 |
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上の写真は、干陸式で祝辞を述べられる住田新治参議院議員である。
住田先生は、金沢に生まれ、金沢三中(現桜ヶ丘高校)第四高等学校、東京
大学と進まれた農業土木の先達で、農林省の組織が農林水産省に、金沢農地事務局が北陸農政局とかわった時、農林省農地局長から初代の北陸農政局長になられた、ちょうど、昭和39年に起工式の行われたころである。 |
![]() 上の写真は、任田先生の揮毫で、内灘ポンプ場の正面玄関わきにかかげられている。
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