潟緑周辺土地改良事業
 放水路締切堤防などの工事とともに、昭和40年から、潟縁周辺の工事も進められた。
 この潟ぶち周辺の排水改良事業には、ポンプ場と湖岸堤防、そして河川改修の三つがある。河北潟には、森下川津幡川など多くの川が流れこんでいる。これらの川は、二級河川普通河川に分けられる。
 干拓事業併行して行われた土地改良事業は、その規模によって、国営県営団体営区分されたが、国営事業としてったものは、大宮川血ノ川など、普通河川下流部改修、ポンプ場、そして、排水路の工事である。県営事業として行われたのは、湖岸堤防と、二級河川改修、さらに、普通河川中流部で、普通河川上流部団体営によって改修された。
 これらの工事で、国営土地改良事業が受けもった仕事は、昭和48年に、そして翌昭和49年に全工事が完成した。

 加賀前田藩の時代から、営々と続けられた潟縁開発地も、この土地改良事業様子一変したが、工事完成後、すでに10数年を昨今、全く昔日面影はなく、ことに、潟の南側での変化は大きい。右の写真は、国営事業でつくられた、舟橋ポンプ場。次ページ以降に、その他いくつかのポンプ場を紹介するが、いずれも、現在(昭和60年)の姿である。

 

 

 

 

 

 

 


 

潟端(北)ポンプ場

 左上は湖岸堤とポンプ場、右上は、このポンプ場で排水される地域遠望。左下は潟出口の水門とポンプ場である。

 

 

 

 

 


 

八田ポンプ場

 右下は、ポンプ場水門の上から河北潟をみたところ、はるかに、砂丘をさく放水路まれる。

 

 

 

 

 

 


大場ポンプ場

 左の写真は、昭和30年代における、潟ぶち周辺姿で、雨が降ると水田は水びたしになった。
 下は、ポンプ場水門から潟を見たもので、大きな建物は、金沢競馬場である。

 

 

 

 


この2枚の写真は、いずれも湖岸堤で、潟の水面側は、波の打ち上げで堤防のくずれを防ぐためにアスファルトがられている。


 昭和49年5月22日に、石川県と河北潟沿岸土地改良区主催で、周辺土地改良事業完工式が行われた。そのに、矢田富雄理事長が読み上げられた謝辞を下にげる。

  矢田富雄さんは、県政重鎮として活躍される一方、昭和37年以来の河北潟沿岸土地改良区理事長として、干拓を中心とする土地改良事業くされた功積めて大きい。
 干拓事業完工をまたず、昭和58年2月18日不帰となられた。ここに んで完工報告をするとともに、御冥福をおりするものである。
 右の写真は、昭和57年5月、田沢農林大臣干拓事業視察をされたのスナップで、中西石川県知事島崎参議院議員とありし日の矢田県議、そして、そのとなりが、矢田さんの後をうけて河北潟沿岸土地改良区理事長となられた今井源三県議である。

 

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