大地の誕生
昭和45年5月、内灘ポンプにスイッチが入れられ、少しずつ、少しずつ水位を下げながら半年。翌46年の1月に、潟底が顔をみせてきた。
おおよそ1万年前から、2千年前までが縄文時代、河北潟が生まれたのは、
縄文の中頃と言われている。5千年もかかって、たまり続けた潟底の土が、やっと顔を見せてくれた。とは言っても、それは顔を見せただけで、到底 人を寄せつけてはくれない。これから、本当の干拓工事が始まるのである。
前にも述べたとおり、米を作る目的だった干拓地が、水田から畑に大転換したのもこの頃である。大地と水、そして太陽の光があれば作物は育つ、だが、大地と水のかかわりは、作物によって異なり、作物に応じた土地改良が必要となる。
どちらかと言えば、米作りに適する干拓地を、畑として利用するためには、土地改良の内容も変わってくるし、困難な問題も多い。水田計画から畑作計画への移行は、ひとり河北潟干拓地のみならず、日本全体の大きな流れでもあった。
右の表は、昭和39年の着工から、干陸が完了する昭和46年1月までの、日本国内における主な出来事である。干拓地を畑とする……ことに決定したのは、干陸式の直後、昭和45年7月で、それ以来、様々な論議と検討を重ねて今の計画がたてられた。
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