面積 2,248ヘクタールの河北潟は、1,359ヘクタールの干拓で、889ヘクタールが潟のままで残され、調整池として利用される。
この調整地には、干拓前と変わらない流域からの水が流れこむため、調整池以外の部分でも、潟ぶちと干拓地の間に水面を残さなければならない。この残された水面部分は、潟に流れこむ川や背後の陸地から出てくる水を承けて調整池に流れるので承水路という。
河北潟の干拓では、東部と西部の承水路があるが、西部承水路は次のような特徴をもっている。
河北潟干拓地の北西部には、特別大きな川はないが、流域流域の大半を占める砂丘の水は河北潟に出る。潟ぶちの住民は、長い間、潟の水と親しんできたし、この水を用水として使ってもきた。したがって干拓でも、昔と同じような状態を残さなければならない、この役目を果たすのが西部承水路である。
前にもいったとおり、ここには大きな川がないため、東部承水路や調整池のように大量の水は流れこまず、それだけに、東部承水路洪水のときでも水面は東部承水路や調整池ほど高くならない。(このために、承水路の両端に水門を設け、調整池、東部承水路から水が流れこまないようにしてある)
河北潟の干拓工事は、まず、放水路の掘り割り、正面堤防、東部承水路の堤防と進められ、昭和44年春には、これらがほぼでき上った。次に取りかかったのが、西部承水路の堤防工事である。
干拓地で農業を営む人々のうち、干拓地に移り住む人を「入植」、移り住まない人を「増反」というが、入植する人々には住宅用地が必要であり、宅地の造成をしなければならない。
西部承水路の堤防と、この宅地造成に必要な土は約 1,500,000立方メートルとなったが、放水路の工事はほとんど終わっているため、新たな土取場を探さなければならなかった。
堤防、宅地造成ともに工事の内容は正面堤防や、東部承水路と変わらず、ポンプ船が主体となること、大量で、かつ値段の安い土が手に入る等の理由から、大崎地内の砂丘地を選んだ。ただし、放水路の場合と違って、土取場は陸上作業となるため、ブルドーザーや、ベルトコンベア一等の陸上機械も活躍したのである。
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