国営干拓事業の発足
日中戦争、太平洋戦争は昭和20年8月に、日本の敗戦でその幕を閉じ、戦後の日本は民主主義と食糧不足で始まる。国民全体が米を求めるに血まなことなった当時、生まれ出る必然性をもって河北潟の干拓計画が生まれた。
銭五以来、浮かんでは消え、消えては浮かんだ干拓の夢は、金沢農地事務局(北陸農政局の前身)に引きつがれた。昭和25年、最初にたてられた計画は、430へクタールの干拓と、潟縁周辺1,130ヘクタールの地上げを行うものだったが見送りとなった。
続いて、昭和27年に、干拓の面積を900ヘクタールに増やすべき調査が開始され、5年の歳月を要して昭和31年に終えた。ところで、日中戦争が拡大して、太平洋戦争に突入した頃から、日本は鎖国状態となり、欧米諸外国における土木技術の情報が得られなくなった。
戦後、昭和20年代の後半、諸外国からの情報が入り出して、日本の土木技術者は愕然とした。日本と欧米の技術に格段の開きがあったのである。風車で有名な、干拓の先進国オランダの知識が入って来たのもこの頃だった。
出先の金沢農地事務局のみならず、農林省(今の農林水産省)あげての技術者が、新知識の吸収に努め、河北潟の干拓計画に取り組んだ。河北潟の「ヘドロ」地盤は、調査が進めば進むほどに、大変なシロモノであることが解明され、難工事が予想されてきた。大きな土木工事には、知識、技術もさることながら大型の土木機械なしには大自然と戦えなかったのである。
こんな時代の背景から、金沢農地事務局が本格的な実施設計に取りかかったのは、昭和35年で、3ヶ年を費やして、昭和37年に、面積1,400ヘクタールの干拓計画ができた。そして翌38年に「国営河北潟干拓土地改良事業」の発足をみたのである。
右の写真は、昭和39年8月17日、津幡町の中学校体育館を会場にして、盛大に行われた起工式の模様である。
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