内灘村と河北潟
河北潟に面する町村は、金沢、津幡、宇ノ気、内灘と四つあるが、内灘だけは、他の三つに比べて事情が異なる。
村全体の面積の80パーセントは砂丘で占められ、明治末期の水田面積はわずかに45町歩しかなかった。総戸数910戸のうち、自分の田んぼを持つ農家は150戸で、ほとんどの人たちは漁業で生計をたてていた。もちろん、内灘村で生産される米だけでは足りず、他町村から買入れなければならなかった。また、漁業も河北潟だけではなく、日本海の沿岸漁業が主で、年老いて海に出られなくなった人たちが、河北潟で魚を獲っていたのである。そして、このような状態が昭和の初期まで続いた。
昭和の初期、日本をおそった経済恐慌は、内灘村とて例外でなく、漁業、特に出かせぎ漁業の不振が、村全体を不況のどん底におとしいれた。内灘村の人たちが、漁業に執着する一方で、水田を求める気持ちの強さは、他の三町村と比較にならない。これが、内灘村の特殊事情なのである。
不況になると、公共事業を増やすのは、今も昔も変わりなく、昭和7年から8年にかけて、「時局匡救事業」……(今の言葉では救急)という名称で行われたのが、宮坂、西荒屋、室地内のうめたてで、当時の工事設計書によれば、その内容は次のとおりである。
砂丘の砂を、トロッコで潟ぶちまで運搬して、右の図のような堤防を築き、水田4.6町歩を生みだした。運んだ砂は全部で4万4千立方メートル、潟底の泥土3千立方メートル。総工事費1万8千円のうち、助成金は50パーセントの9千円だった。
このうめたて工法は、銭屋五兵衛の時代と大差なく、ただ、近くに砂丘の豊富な砂があり、トロッコという、新しい運搬道具が出現していたことである。堤防に使った、粗朶や葦のくさりが早く、流されたものも多かったという。
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