まぼろしの開発構想
銭五の壮大な計画も、嘉永5年の悲劇的な幕切れで夢物語となったが、時代は幕末に向かって激動した。銭五が死んで7年後の安政6年、異国船が大根布沖にあらわれているが、ちょうどこのころに、相前後してたてられた2つの構想がある。
(イ)河内谷川運河計画 元治元年(1864)の河内谷川運河計画は、越中の小矢部川と河北潟を運河でつなぐというもので、現在のJR北陸線、津幡〜石動がそのルートである。
当時、舟運の開けていた小矢部川と河北潟を結んで、内陸交通、運輸の利便を図ろうとしたものであるが、如何せん、途中に源平の古戦場たる倶利加羅−天田峠があり、当時の技術では無理な話だった。この計画に関して、現存する古文書の内容は下のとおりで、砺波郡安楽寺村領〜河北郡九折村領の間、「山操抜」とあるから、加賀藩は本気でトンネルを考えたように見えるが、その実、騒然たる世情下にあって、藩勢誇示の道具に使ったのではないか……とも思える。
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(ロ)河北潟放水路計画
白尾村清兵衛と署名された古文書があって、これによれば、河北潟の水を直接日本海にぬく放水路計画が慶応4年(1868)にたてられている。具体的な場所は不明であるが、内日角村の船場から白尾村の海岸までとあるがら、河北潟北端の砂丘地を切り開こうとしたものであろう。
全長950間(約1,700米)を4つの丁場に区分して、3間はば(約5m)の放水路をほりぬく。これに要する人足40,148人、用銀5,040貫と見積もり、さらに、この調査には、安政5年以来10年の歳月をかけたとある。
この計画のねらいは、放水路による渇水位の低下、ひいては潟ぶちの開墾と、放水路の水を利用した砂丘地の開発であったと思われるが、前の河内谷川運河と同様、規模が大き過ぎて実施には至らなかった。
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