銭屋五兵衛

 金沢の中心街、前田の居城をはさむように二つの川が流れている。一つは河北潟に入る浅野川で、この河北潟は別名蓮湖」とも言うが、この浅野川の北側にあることから河北潟とばれる。
 もう一つは、直接日本海に出る犀川で、河口付近金石町を、宮腰といった。地形上さして良港とはいえないが、加賀百万石の海の玄関としてえた町である。
 銭屋五兵衛は、11代藩主前田治修安永2年(1773)この宮腰に生まれ、幕末嘉永5年9月、河北潟うめたてにまつわる嫌疑検挙され、同年11月21日牢死した。ときに銭五80才、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリーの浦賀入港翌嘉永6年6月である。左の写真は、今の金石町に建つ銭五像で、にまとっているのは船頭合羽、頭をめぐらす先は日本海。
 銭屋屋号は、もともと、金銭両替えと質屋家業としていたからで、が39才のとき、質流れの船で始めた海運業に当たり、北前船で日本海をかけめぐった海の豪商として有名である。この海の男が、76才の晩年に河北潟のうめたてをてた。
 銭屋五兵衛の伝記、記録は数多いが、それの書かれた時代によって彼の評価が変わる。元金沢大学教授、若林喜三郎氏は、これらを総括して
からびたこの老商の死には、崩壊期封建社会悲哀がからみついている。銭五の悲劇は、封建末期における典型的商業高利貸資本家運命に根ざしているので、後世巨大声誉にもかかわらず、彼とても風にかれる一本のであったにすぎない。ましてや加賀藩がすこぶる後進的北陸型大藩であり、しかもその故の末期的なあがきから来る政争にまきこまれたのでは、その悲運当然な運命であったといわねばならない。」
 80近くのいたる銭五が、何故牢死しなければならなかったか、何故に河北潟の埋立てをてたのか。上の文章は、それもこれも幕末期における商業高利貸資本家必然的な運命とじている。
 銭五の北前船が日本海をかけめぐったころと相前後して、ロシア、イギリス、アメリカ等の異国船が日本列島の海岸に近づいた。宮腰にほど近い打木浜で、嘉永元年に加賀藩が大砲発射演習、そして2年には、異国船着岸したときの処置令を出している。


 このような情勢のなかで、海運業前途暗雲を感じた企業家銭五は、銭屋家活路を河北潟うめたて、大開発地主に求めたのである。町人田地所有じた藩政下、まず三男要蔵寺中出村百姓として入りこませ、この要蔵名儀人にして、嘉永2年2月河北潟のうめたてを願い出た。
 同、嘉永2年6月、藩からされた許可内容

(イ)波除開2,900する費用はすべて願出人要蔵負担とする。
(ロ)2,900石の4分の1,725地元村々還元し、要蔵持高は残りの2,175石とする。

 ここに、波除とはナミヨケの意で、今日でいう堤防のことである。河北潟開発の長い歴史のなかで、らく初めて出てきたうめたて法といえ、銭五の財力なくしては考えられぬ工法であり規模である。
 さらに、嘉永4年7月、藩に提出した新開証文では、2,900石を4,600石に増やしており、右図のようにそのうめたて範囲は、河北潟の南端から北端にかけての全域におよぶ。ちなみに、当時収穫高を10アールあたり100キログラム程度見積もれば面積は600ヘクタールをえる。なお図中定免とあるのは上納割合で、2.2は1,200石の2割2分、つまり上納米264石の意味である。この新開全面的めたかどうかはかでない。
 さきゆきのあせりがあったにせよ、このような大うめたて計画は、銭五の財力なしに考えられないものである。……が、いかんせん河北潟のヘドロをあまく見すぎた。河北潟の底なし沼に、ちょっとやそっとのくいを打ってもき目なく、銭五自身、海中ずるごとしと言っている。銭五や要蔵が、潟縁に住むっからの百姓であったなら、らく、手を出さなかった工事であろう。
 次に、企業家銭五面目躍如たる事実は、このうめたて工事を、土工出かせぎを専門とする能登宝立人足頭理兵衛理兵衛にうけおわせたことである。企業家的利益追究は、賃金の安いかせぎ人夫使役となり、地元村々をうるおさず強い反感うはめとなった。後世、銭五の評価左右する理由の一つである。
 うめたて工事に対する地元民反感は、妨害発展し、毒物投入死魚発生公害問題を生み、うめたて事業一挙瓦解した。毒物投入は、工事現場の魚を毒物駆逐し、漁民立入り(口実とする妨害)をくためとも、あるいはまた、ヘドロ対策として石灰俵特殊ぜて使ったためとも言われており、死魚の発生自然現象で、うめたて工事が原因ではないとのもある。

 

 いずれにしても、加賀藩性急に、銭五財閥解体ったのは、して単純な理由ではなかったであろう。銭五とりつぶしの有力の理由として、さきの若林喜三郎氏は、
(イ)河北潟投毒嫌疑
(ロ)会津領山林買占事件
(ハ)密貿易に対する幕府追究未然防止
の3点をげ、(イ)の投毒事件動機となって、(ハ)の密貿易容疑らんとしたものであろう……としている。
 嘉永5年11月、80才の五兵衛は判決をまたずに牢死、翌6年12月に三男要蔵のはりつけさらし首連累処刑者51人、没収された財産は藩の記録で12万両となっている。銭五の総資産は300万両といわれ、藩の没収した額はもっと大きかったとも言われているが、銭五のうめたてた土地はどこにもない。

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