銭屋五兵衛 金沢の中心街、前田の居城をはさむように二つの川が流れている。一つは河北潟に入る浅野川で、この河北潟は別名「蓮湖」とも言うが、この浅野川の北側にあることから河北潟と呼ばれる。 |
|
|
|
このような情勢のなかで、海運業の前途に暗雲を感じた企業家銭五は、銭屋家の活路を河北潟うめたて、大開発地主に求めたのである。町人の田地所有を禁じた藩政下、まず三男の要蔵を寺中出村に百姓として入りこませ、この要蔵を名儀人にして、嘉永2年2月河北潟のうめたてを願い出た。 同、嘉永2年6月、藩から申し渡された許可の内容は (イ)波除開2,900石に要する費用はすべて願出人要蔵の負担とする。 ここに、波除とはナミヨケの意で、今日でいう堤防のことである。河北潟開発の長い歴史のなかで、恐らく初めて出てきたうめたて法といえ、銭五の財力なくしては考えられぬ工法であり規模である。
|
いずれにしても、加賀藩が性急に、銭五財閥の解体を図ったのは、決して単純な理由ではなかったであろう。銭五とりつぶしの有力の理由として、さきの若林喜三郎氏は、 (イ)河北潟投毒の嫌疑 (ロ)会津領の山林買占事件 (ハ)密貿易に対する幕府の追究未然防止 の3点を挙げ、(イ)の投毒事件が動機となって、(ハ)の密貿易容疑を葬らんとしたものであろう……としている。 嘉永5年11月、80才の五兵衛は判決をまたずに牢死、翌6年12月に三男要蔵のはりつけ刑さらし首連累の処刑者51人、没収された財産は藩の記録で12万両となっている。銭五の総資産は300万両といわれ、藩の没収した額はもっと大きかったとも言われているが、銭五のうめたてた土地はどこにもない。 |