前田綱紀の里子開き
河北潟は、底が浅くて皿のような池である。ここへ浅野川をはじめ多くの川が流れこみ、大野川を通じて日本海に至る。大きな雨が降ると潟の水位は高くなり、晴天が続けば水位が下がって、潟縁に干潟ができる。
河北潟の開発は、この潟ぶち干潟から始まり最も古い記録は正保3年とされるが、その前年の正保2年(1645)に、幼くして加賀藩五代目を継いだのが前田綱紀である。
加賀歴代藩主のなかでも綱紀は名君とされ、その治世は俗に「政治は一加賀、二土佐」と、そして、かの荻生徂徠は「加賀には乞食が一人もいない」と感嘆の政談を残している。
寛文9年(1669)領内に大水害が発生し、家や田畑を流された多くの百姓が城下町の金沢に集った。綱紀は、この難民を金沢笠舞に設けた非人小屋に収容して、藩の土木工事に人夫として使ったり、里子という、希望農家に難民をやとわせる政策をとった。このことが伝わって荻生徂徠を感嘆させたのである。
左の地図は、昭和29年発行のもので、図のほぼ中央に「潟端新」と「加賀神社」がある。寛文12年(1672)このあたりで狩りをした綱紀が、付近の干潟をながめて開墾の計画をたてたと伝えられる。
翌年の延宝元年、綱紀は非人小屋から里子24人を選んでこの地に移住させ、利屋村三太郎外7人の出百姓に里子の指導をさせた。これが実を結び、延宝3年の検地高では、
出百姓8人分 289石2斗3升 定免 3.5
里子百姓分 227石6斗 定免 2.8
と決められている。定免とは藩に納める率で3.5は3割5分を表す。
当初は太田村領で小屋がけしていた出百姓と里子が、本格的な村並みに直して「潟端新村」が生まれた。そして、利屋村領内に住んだ里子7人が後の「七ッ屋」になったと伝えられる。
このようにして生まれた「潟端新」の守護神として創祀されたのが諏訪社で、諏訪は州端に通じ、潟ぶちの守り神である。この諏訪社が「加賀神社」の前身で、「潟端新」の開拓者たちは、諏訪の神を祀るとともに、藩主綱紀に感謝の念をささげ、綱紀の法号にちなんで松雲神社と呼んでいたが、明治42年「加賀神社」と改められた。
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