河北潟開発の歴史 河北潟開発の歴史は、米作り、土地作りの歴史であるが、ウルム氷期以来2万年近い年月をかけ、数回の間氷期をはさみながら、海進と海退を重ねて出来た潟と、ここに住みついた先人の、かかわりあいの歴史でもある。 潟のできたいきさつから、潟とその周辺は厚い沖積層でおおわれているが、この沖積層は別名「ヘドロ層」といって、人間をよせつけない土である。 このヘドロと真正面から取り組んだ銭屋五兵衛は、そのうめたて計画が大がかりだったことに加え、彼の悲劇的な最後から広く世に知られているが、河北潟の開発は決して銭五に一人占めされるものではなく、長い地道な、米作りの歴史がある。 封建社会というわく組みのなかで、この米作りがどのような役割を果たしたのか、この点をぬきにしては米作り、土地作りの歴史はひもとけない。 右の図は、農林水産省監修の「土地改良の全容」から引用したもので、島国 日本の人口と耕地面積が、どのように変化してきたかを示している。耕地面積の増加は食糧の増産につながり生活の向上につながって人口の急増を招く。このことは昨今の発展途上国と全く同様である。また、食糧の増産は耕地面積の拡大のみならず、同一面積での収穫量も大はばに増えている。米作りのための、用水や排水に注がれた先人たちの努力の結晶である。 天正11年(1583)に前田利家が七尾から金沢に居城を移し、1600年関ヶ原の合戦、江戸幕府の開かれたのは慶長8年(1659)であるが、ちょうどこのころから人口急増の第一波が始まる。 河北潟の開発も、ひとり潟とその周辺のみならず、島国 日本の大きな流れの中にあったことを見逃せない。 大きな流れとしては、戦国末期から藩政創立期にかけて、戦乱で荒れ果てた土地の回復、逐電百姓の帰村奨励策に始まり、関ヶ原合戦、大阪夏の陣と、天下の情勢が固まる中で、おいおい大規模な新田開発が始まる。 寛永11年(1634)将軍家光が、加賀藩主前田利常に与えた領地状は 119万2千760石であるが、寛永16年、利常が光高に封を譲るとき、富山10万石、大聖寺7万石の両支藩を分家させたため、寛文4年(1664)綱紀が将軍家綱から受けた領知状には102万5千石とある。 |
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この領知はいずれも朱印高で新田高は含まれていないが、幕府への報告書によると、江戸中期まで上昇を示し、一時停滞して幕末期にまた上昇する。 江戸中期頃のは、新田高を含めて130万石と考えられるが、家臣などへの知行米80万石、残り50万石を五公五民として、約25万石が藩の蔵に入る。これからさらに、諸掛りを差引いて経常収入となるのは12〜13万石、江戸へ3万石、10万石前後を大坂に送っていたらしい。藩が領民から取り立てたのは、米だけではない。が、何といっても米が主体であり、加賀百万石の体面は、領内百姓の生産する米で保たれ、藩の貨幣収入も、その7、8割は江戸、大坂に送った米の売払金に頼っていたのである。したがって、この時代における開発改良は、すべて年貢米として収奪するための政策下にあり、百姓の取り分は、生かさず殺さずで、残りは根こそぎ上納させられたのである。 河北潟とて、もちろんその政策下にあったが、潟の水とヘドロにはばまれ、加賀藩の開墾史からみれば後期に属し寛文年間から始まる。ここでは藩政期における代表的な開発事例二つを挙げる。 |
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