内灘砂丘・河北潟の生いたち

 人間の歴史を尺度にすると、ため息の出るほど長いのが、天地創造の歴史で、地球誕生27億年、日本列島が大陸から分離して、いくつかの島となったのは、最近の200万年の間のできごととされている。
 地質学では、この最近200万年をと称し、200万年〜1万年の間を洪積世、最近1万年を沖積世沖積世と呼んでいる。沖積とは、川の流れに運ばれた土が、んで積み重なることを表わし、海水面の高さと密接な関係がある。
 地球は過去4回の氷河時代を経験しており、古い順に、ギュンツ・ミンデル・リス・ウルム氷期と名づけられているが、日本列島の経験しているのは、最も新しいウルム氷期氷期で、その 最寒冷期は2万年前といわれる。
 寒冷期氷河発達は、海水面の低下となり、陸地からみれば海が退く……これを海退

 反対に、温暖期の海水面上昇、これを海進という。2万年前の最寒冷期以後、 何回かの寒暖変化をうけているが、1,500年前から現在までは温暖期といわれている。
 海退が大きいと、山から流れ出る川は、途中よどむことなく、川底浸蝕しながら海にする。ドイツのライン河とイギリスのテームズ河は、それぞれ海底に川跡の凹地を残し、両者は、イギリスの東海岸沖合流しているという。寒期から暖期移行すると海進が始まり、海水面が高くなれば、川の下流で水がよどみ沖積作用がおこる。
 下の図は、金沢大学、細野義夫教授の編著になる「石川県の環境地質」から引用したものである。海水面が今より100メートル以上も低かった2万年前、 ライン河とテームズ河ほどではないにしても、遠く離れた手取川から運び出される砂礫で大きな扇状地がつくられ、内灘砂丘・河北潟の底にまで広がっていたのである。



海岸線に平行に,砂丘の内側を通る断面を示す.水平:垂直=1:20
Al:沖積世泥質層),A2:沖積世(河床礫層),D3:洪積世末期扇状地礫層を主とする).
D2:洪積世後期砂層泥層など),Dl:洪積世中期礫・砂・泥層),Do:洪積世前期卯辰山層),
0:鮮新世後期大桑層),N2:中新世中・後期〜鮮新世前期の堆積岩層,Nl:中新世前・中期の火砕岩層など,
Gr:先第三系(花岡岩


 この手取川扇状地の上を、犀川浅野川などが流れていたが、その模様端的に表しているのが、左と下の図である。
 つまり、河北潟の地下30〜50mには、海退の最も大きかったころの姿が化石のようになって残っている。そこにはもちろん河北潟は存在しないし、今の森下川津幡川などは直接海に出ていたもので、内灘砂丘の底には、かつての川跡が残っているはずなのである。


 ウルム氷期最寒冷期から1万年をた、今から約1万年前の、洪積世から沖積世に移るころが人類の細石器時代で、やがて、縄文時代があき、弥生古墳時代と続いて現代にる。地球上にれる次の氷河期はいつごろなのか、そして、ギュンツ・ミンデル・リス・ウルムのあとにどのような名称がつけられるかはもちろんわからない。が、前にもふれたとおり、氷期氷期の間には、比較的温暖な「間氷期」がはさまれており、ウルム最寒冷期ほどではない、小規模海進海進、海退がくり返され、今から6000年前の海進では、海水面が現在より5メートルも高かったといわれている。
 右の表は、沖積世に入ってからの様子すもので、ここに、初めて内灘砂丘と河北潟が顔を出してくる。
 地球上のわずかな温度変化がもたらす海進と海退で砂丘や河北潟を作り出したが、右ページの図面は、その模様物語り、我々をタイムカプセルに乗せて縄文時代にまで運んでくれる。下の写真は、干拓
事業でつくられた河北潟放水路で、切り開かれた内灘砂丘が顔を出しており、一見何の変哲もない砂山に見えるが、大きな歴史めているのである。
 自然の偉大な力が、古い砂丘を作ってから、新しい砂丘をつくるまでの間、ここに、古代人住居えていた事実遺跡として発見されている。右ページの図面黒土(厚さ30−50センチメートル)から発掘される黒津船西荒屋などの砂丘遺跡がそれで、縄文弥生古墳の時代にまたがる。
 そして、河北潟干拓地のボーリング調査採取された地底の土の花粉分析から、縄文晩期弥生、今から2400年前すでにがあったことも確認されている。
(以上の図、表は、藤 則雄、細野義雄、吉岡康暢、橋本澄夫編著の「金沢周辺の第四系と遺跡」から引用させていただいた。)


前のページへ  目次へ  次のページへ