水田から畑へ 

 有史以来、米を食べつづけて来た日本人、太平洋戦争にけて飢餓線上をさまよった日本に、大きな異変れた。昭和20年敗戦で、焦土した大都市、てた国土、そしてせまい国土にあふれた人間。こんな中から立ち上った日本の目ざましい復興は、戦勝国欧米に追いつけいこせの連続だった。そし て、貿易立国食生活改善狭間で米がりだしたのである。
 農林水産省構造改善局監修の「土地改良全容」に右と下の図表がある。これでみると、昭和41年頃から米がり始めて、昭和44年には、水田をらす減反政策が打ち出されている。ちょうど、河北潟干拓のな工事が大体できて、これから干拓干陸)に入ろうとした前年である。
 藩政期以来、米を作るための土地造り、この延長線上発足した河北潟干拓の目的は、もちろん、米を作ることであった。水田から畑へと、日本中農家がゆれ動いた中で、河北潟の干拓も、昭和45年、水田から畑へと大転換したのである。
 地上に深さ数センチメートルの水をためて、栽培する水田は、河北潟周辺の低い土地にした利用方法といえるし、干拓地でもこのことがいえる。つまり、大雨が降って、田んぼに水がたまっても、深さが大体30センチメートル以内ならかるのである、したがって、水をくみ出すポンプも小さなものですむ。
 ところが、畑の作物は、極端にこの水をい、地面のうえに水がたまってはならないのであり、った雨は、ちにポンプで はき出さなければならない。このためには、水を集めて流す排水路と、ポンプの能力はより大きなものが必要になる。

 

 

 

 

 干拓地堤防い、中の水をポンプでくみ出した内灘ポンプがそれであるが、もともと、水田で発足したため、それなりの能力しかこのポンプは持っていなかった。
 下の写真は、水田から畑に変わり、このため最初に作った内灘ポンプ場のかたわらに、新しくえられたポンプ場で、このに、津幡、金沢のポンプ場が必要となった。

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